モーリス・ド・サックスの著書より。 主に軍事について語る予定。 コメント・トラックバック歓迎
ここ数日に渡ってエントリで何度も述べているが、こう北朝鮮相手に威勢のいい事を言う人は多い。特に、今までそんなことを全然考えたこともなかったような人ですら、北朝鮮に対して厳しい対応をするようにと言っている。別にそれはそれで構わないのだが、ただ、再度、本当に覚悟があるのか、改めて軍事理論に照らしながら考えてみたい。
さて、そもそも闘争、つまり広義の戦いにおいては、我と彼という交戦者の間でいかなる原理が存在するのだろうか。戦うという行為の背景にはいかなる原理が横たわっているのか。これを知らなければならない。戦う者であろうとするならば、この原理に身を置かなければならない。
さて、ここで一冊の漫画のセリフを引用しよう。
鉄火を以って 闘争を始める者に 人間も非人間も あるものか
彼らは来た!! 殺し 打ち倒し 朽ち果てさせるために 殺されに 打ち倒されに 朽ち果てされるために それが全て!!全てだ!! 闘争の 契約だ!! 彼らは自らの 弱いカードに みずからの全てを賭けた!! そういう事だ!!
殺さなければならない!!
それを違える 事はできない 誰にもできない 唯一ツの理だ
神も 悪魔も 私も おまえも
平野耕太,HELLSING 3 (3)
,少年画報社,pp.79
このセリフは戦いの原理を端的に示している。いかなる原理か、単純に言えばそれは、相手を殺し、打ち倒す為には、相手に対して同等の権利を与えなければならないという事である。
英語に於いては交戦をengagementという。婚約も同じ言葉であり、その本来的な意味は約束、契約、取り決めといった意味である。つまり、戦うという事は、ある相手と闘争を行うという事は、この契約、つまり殺し合いをするという契約を取り交わす事に他ならない。
戦いという、言わば人間にとって根本的な強制力を有する暴力の行使にあっては、我々が服している法律も伝統も道徳も、基本的には意味を為さない。もちろん、口で相手の行為を汚いと罵る事は出来るが、そのような口先だけの言葉は暴力という現実の前には全くの無力であり意味を為さない。それゆえに、そこで意味を為すのはただただ単純な暴力そのものである。よって何を言おうと闘争の中では相手の暴力を止めるのは我の暴力しかないし、我の暴力を止めるのは彼の暴力しかない。
ここで、もう一つ、重要な原理を紹介しよう。
戦争は一種の強力行為である、そしてかかる強力行使には限界が存しない。それだから交戦者のいずれもが自己の意志をいわば掟として相手に強要するのである。そこで彼我の間に交互作用が生じ、この交互作用は、理論的に言えば、極度に達せざるをえないのである。
クラウゼヴィッツは、理論的上は戦いというものは理論上は極限にまで達する、つまり、ただの殴り合いは相手を完全に血祭りに上げるまでお互いに力を増していくという事を指摘している。もちろん、クラウゼヴィッツはこの後に現実的な修正をしているが、原理的には無限の交互作用というのが存在する。
上述の二つの点をまとめると、第一に戦いは交戦者双方に相手を殺す権利と殺される義務を課す、第二に戦いは無限に強度を増す、という原理が明らかになる。そこで私は、これを読んでいる人に問う。
私は問う。北朝鮮と戦うというならば、あなたがたは彼らに攻撃され死に苦しむ事を認めるのか? 闘争の原理を甘んじて受け入れ暴力の応酬により決着をつける事に異存は無いか? その暴力を無限の強度で、我々の持つ総ての手段を以って、また彼らの持つ全ての手段を受け入れて、それで絶対的な戦いを繰り広げる覚悟はあるのか?
私は構わない。暴力という絶望の深淵を覗き込み、そして狂気に囚われた私にはもはやあなたがたを断罪する資格はない。ただ、本気でその覚悟があるのかだけを問いたいのだ。
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Author:うしゃこふ
アンチ国士様、アンチお花畑の軍事根本主義者。
日本版ポリティカルコンパス
リベラル左派
政治的な右・左度-3.4
経済的な右・左度-5.37
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何にせよ、その覚悟をもってことに臨むのは最も重要でありましょう。